対人恐怖症克服への記録

対人恐怖症を克服するまでの日々の記録を綴ります。

神経質な歴史 その1

1996年大阪市内で生まれる

 

 

赤ちゃんの頃は喜怒哀楽が激しかったそうです。最初に覚えた言葉は「でんき」だそうです。^^

 

 

物心がついた頃には母が私の二の腕をつねり(二の腕のタプタプした感触が気持ちよかったのか)、痛かったのを覚えています。

 

 

毎回つねられるのが嫌で抵抗していましたが、それが母親には伝わらず、結局小学校に入る頃ぐらいまでつねられていました。

 

 

姉がいましたが、母は末っ子で男の子という事もあったのか、私への干渉が強く、身の回りの事なども全てやるような人で、またコミュニケーションに関しても殆どが母親の一方通行なものでした。そんな中で母親との共依存の関係は強まっていきました。私自身、マザコンで母親が大好きでした。特に母親の耳を触るのが好きで、ほんとによく触っていました。

 

 

意外にも幼少期の私は人見知りせず、愛嬌があったのか、周りの大人からはよく可愛がられていました。そんなおごりから、欲しいおもちゃを買ってくれないと地面に寝っ転がって泣き喚くなどして、よく困らせていた事なども覚えています。

 

 

幼稚園

 

 

母親への依存は強かったと思いますが、幼稚園に行く時などは特に泣いたりすることもなく通っていました。遊ぶ友達もおり、楽しく通っていました。

 

 

曖昧ですが印象に残っている出来事は、年長組と年少組の交流会でのです。普段は関わりのない年長組と年少組が一緒に遊んだりご飯を食べるというもので、年長だった私はペアになった年少の子に「優しくしたろか?」という意味不明な台詞を、事あるごとに言っていたことを覚えています。

 

 

小学校 (低学年)

 

小学校に入学した頃に、近所の書道教室に通わされました。私が左利きだったのでそれを右で書くように矯正するためでした。同時期にお箸も右に変えるように躾けられました。今では書くのと食べるのは完全に右ですが、その時は凄くストレスを感じました。書道教室には3年通いましたが、左が右に変わっただけで字は全く綺麗になりませんでした。今でも字が汚いのがコンプレックスです。

 

 

小学1年生の頃に習い事でサッカーを始めました。小学校に友達はいましたが、始めた習い事では知ってる顔が全くおらず、自分から話しかけて友達を作るという事が出来なかったです。いつも黙っていたように思います。ある一人の子がウォーミングアップ前に僕のボールを奪い遠くに蹴っ飛ばして面白がっていたのを覚えています。僕は何も言わずに遠くに飛んでいったボールを走って取りにいきました。戻ってきたらまた奪われて飛ばされるという繰り返しもありました。サッカーは4年生まで続けましたが、レギュラーにもなれず、楽しくもなく、辞めたいとずっと思っていました。親と一緒に監督に辞める事を告げにいった時、監督に、「自分からいけよ」と最後に言われた事を覚えています。